初代将軍家康の時代


大坂の陣にて豊臣を滅ぼし、征夷大将軍となった家康

江戸に幕府を開きました

260年におよぶ天下泰平の時代の始まりです。

家康の頃は「大奥」といったはっきりとしたものはありませんでした

家康の女性のタイプはずばり「後家」であります

美人だとかは関係なく、とりあえず子供が産める人を側室にしました

一度結婚していて子供を産んでいる女性であれば、また子供が産めるということで、女性を「子供を産む道具」としかみていなかったのです

それでも60歳ごろになると、好みが変わってきて、10代の若い女性を側室にするようになりました


正室 築山殿

築山殿は今川家出身です

当時家康は今川家の人質だったため、今川出身の築山殿と結婚させられました

築山殿は家康の長男・信康を出産しますが、織田信長の機嫌をそこね、築山殿も信康も切腹を命じられます

築山殿は信康の妻である徳姫(織田信長の娘)と折り合いが悪く、嫁姑の争いをしていました

そして徳姫がいつまでたっても子供を産まないので、信康に側室を紹介したりしたりと、嫁・姑バトルを繰り広げていたのです

怒った嫁の徳姫は父・信長にチクリの手紙を書いたのです

それに怒った信長が二人を処刑したのでした

家康は、2人の死をとても悲しんだそうです


正室 朝日姫

二番目の正室となった朝日姫は豊臣秀吉の妹

秀吉はなんとしても家康を自分の配下に加えたかった

その道具として、妹・朝日姫を家康の正室として送り込んだのです

当時家康は側室はたくさんいましたが、築山殿が死んでから正室を迎えていませんでした

そこを秀吉に目を付けられたのです

人質のような形で駿府へ行かされた朝日姫

夫がいましたが離婚させられ、その夫は自害したといいます

朝日姫の環境は最悪でした

なんせ敵である秀吉の妹

家康の家臣らからも冷たくされる毎日を送っていたのです

そんな頃、母の大政所が病気に

朝日姫は大政所の看病をするべく大坂へ戻りました

が、母の病気が治っても「帰りたくない」という気持ちが強く、帰らなければいけないことを考え続け、とうとう病気(鬱?)になって死んでしまったのでした



側室 小督局

小督局は正室・築山殿の侍女でした

が、なんと家康のお手付きになってしまったのです

それを知った築山殿は激怒し、小督局を丸裸にして城の庭の木に縛り付けました

夜中にヘンな泣き声がするのに気がついた家臣が、びっくりして小督殿を匿ったのです

小督局は双子を生みましたが、一人は死産でした

その1人が後の結城秀康となります

が、顔が「ギギ」という魚に似ているため家康が「この子は本当にワシの子か?と疑い、秀康は可愛がられることなく秀吉のもとへ養子に出され、さらに結城家へ養子に出されることとなったのです

小督局は72歳まで生きました


側室 西郷局
さいごうのつぼね

お愛の方と呼ばれていて、のちに西郷局と呼ばれるようになりました

若くして未亡人となり、行くあてがなく、家康の家臣の家に住んでいたお愛の方は、ふとしたことから家康の目にとまり浜松城へ召しだされた

この時、お愛の方は17歳 家康は37歳でした

そして男児を2人出産

それが三男の秀忠と四男の忠吉です

お愛の方はある程度いい家柄の娘でありながら、若くして夫を亡くしていたので、マジメだったらしい

そのため家康にとても気に入られていました


側室 茶阿局
ちゃあのつぼね

とても変り種の側室であります

茶阿はもともと百姓の妻でした

が、夫が知人とケンカして殴り殺されてしまったのです

仇を討つべく茶阿は娘を連れ、鷹狩にきていた家康の前に突然現れたのです

「夫の無念を晴らしてください!」と

本来なら無礼者!と追い返されるところでしたが、その無鉄砲さと勇気・そして美人だったため家康が気に入ってしまいそのまま連れて帰ってしまったのです

敵討ちはどうなったかはハテナ?です

茶阿局は気が強いだけではなく、気が利く女性だったそうです

そして六男の忠輝を出産しました

が、忠輝は大坂の陣で何の活躍もしなかったため領地没収となってしまっています

家康が死んだ時に、最後まで付き添っていたのは茶阿局です



側室 お亀の方

お亀の方は岩清水八幡宮の社人の娘

結婚し、子供も産んでしまいましたが夫が早死にしてしまいました

そのためお屋敷に奉公していたのです

家康が屋敷に立ち寄った際にお茶を出したのがお亀の方で、その美しさが目にとまり側室となりました

この時お亀26歳 家康は53歳です

そして九男の義直を出産

家康は晩年に生まれた子をとても可愛がり、この義直はのちに徳川御三家である尾張家の祖となります


側室 お万の方

お万の方の父は勝浦の城主だったので、側室の中では身分は高い方でした

もともと美しい女性だったお万の方は、関東の国々を巡視している家康の目にとまり召しだされました

この時お万の方はなんと14歳

そして家康は53歳でした

お万の方は十男の頼宣を出産

そして十一男の頼房を出産

上でも書きましたが、家康は晩年に生まれた子をとても可愛がりました

頼宣はのちに御三家である紀州家の祖となり、頼房は水戸家の祖となります

お万の方は、息子2人が御三家のうちのニ家を占めたことを見届け、74歳で死去しました


寵愛NO1 お勝の方

水戸城主の家臣の娘です

わずか13歳の時に家康に見初められ、終生家康の寵愛に変わりがなかったと言われいている側室です

家康が49歳の時に召し上げましたが、ちょっと若すぎるので可哀相だな・・・と思ったらしく、一度は他の男と結婚させました

が、肝心のお勝の方が「いやです!」と拒んだため、わずか1ヶ月で離婚させ、その後長い間家康の手元に置くことになりました

家康はお勝の方を大坂の陣に連れて行きました

それほどまでに家康のお気に入り

また才知にも優れていたそうです

お勝の方は市姫という娘を出産

誕生と同時に伊達政宗の長男と婚約させたが、4歳で死んでしまいました

お勝の方の悲しみはすごく、可哀相に思った家康は、側室お万の方が生んだ頼房をお勝の方の養子にしてあげました

以後、家康が死ぬまで寵愛を受け続け、56歳で死去しました



信頼度NO1 阿茶局
あちゃのつぼね

本名はお須和といい、甲州の侍の娘でした

結婚してましたが、夫が戦死し25歳のときに家康に召しだされました

外交能力に優れており、家康は政治のことなんかも阿茶局に相談するほど

家康の死後は秀忠・家光にも信頼されました

秀忠の娘・和子が天皇家へ嫁ぐ時に活躍したのもこの人です

こうして徳川の外交官として活躍し続け、83歳でこの世を去りました


下山殿

家康の側室の中で「殿」がつくのは最初の正妻・築山殿とこの人だけ

あまり身分にこだわっていない家康の側室の中で、毛並みがいいので「殿」がつきました

下山殿は穴山梅雪の養女であり、父は秋山守虎です

武田家が滅亡した時、家康は甲州にて「女狩り」を行いました

狙いは信玄の娘である22歳の松姫です

家臣達は松姫を守るために替え玉を探しました

そして白羽の矢がたったのが下山殿だったのです

当時18歳の下山殿はすでに結婚していました

が、松姫のために夫と別れ人身御供となったのです

そして27歳の時に病気となり、死んでしまいました

お気の毒な側室であります



女狩りで側室になった女性たち

家康が下山殿をゲットした「女狩り」の時、他に3人の女性を召しだしました

それがお竹の方・西郡の方・お牟須の方です

お竹の方には出生などがいまいちよくわかっていません

西郡の方は次女の督姫を産んでいます

お牟須の方は懐妊しましたが、難産で母子とも死んでしまいました


晩年に手に入れた10代の側室たち

家康は未亡人を側室にしていましたが、年をとってからはピチピチな10代がお好みでした

その10代の側室たちがお仙の方・お梅の方・お奈津の方・お六の方です

お仙の方は信州出身で、いつどこで側室になったのかはわかっていません

お梅の方は15歳の時に家康に気に入られ寵愛を受けましたが、59歳の家康はちょっとかわいそうになったらしく、家臣の本多正純にお梅をあげちゃいました

が、本多家は「宇都宮釣天井事件」によって配流となり、お梅の方は尼になったそうです

お奈津の方は16歳の時に家康に気に入られ召されました。経緯は全くわかっていません

お六の方はお勝の方の雑用係でしたが、家康に気に入られ召されました。お六の方も陣中にお供したりしていたそうです。家康が死んだ時はまだ19歳。そのため尼にもならずにいましたが、29歳で死去。「尼にならなかったから神罰があたったんだ」と噂されました


その他の愛妾

家康はそのほかにも手をつけた女性は数多くいるそうです

明らかになっていない女性も合わせると、ほんと好き勝手やっていたんでしょうね